もっと那覇市を知ろう!

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接収による米軍管理下から奇跡の1マイルへ

終戦後は旧那覇市中心部は米軍の管理下におかれることになり、軍施設から1マイル以内の立ち入りは禁止されます。多くの那覇市民は県北部の収容所に移されていましたが、1945年になって壷屋地域の窯業関係者の立ち入りを許されたことで、約100名の職人が那覇市に入ることになります。さらに牧志地区の瓦職人らが同様に入市を許されることになったことにより、家族や親戚縁者の移動に紛れるように多くの市民が那覇市に移り住んだため、自然発生的に集落が生まれ、闇市なども開催されるようになりました。そうして活気づいた頃、米軍の物資集積所があった新県道沿いの一角(現在のてんぶす那覇付近)に映画館を開館されることになります。沖縄戦のさなかに伊江島にて戦死した従軍記者として同行したアーニー・パイル氏にちなんで「アーニー・パイル国際劇場」と名付けられた映画館によって周辺地域が商業地として急速に発展し、新県道は「国際通り」と命名されました。以降、国際通りは戦後復興のシンボルとして、また通りの全長が約1.6キロメートルという1マイルの単位にちなみ“奇跡の1マイル”と呼ばれるようになりました。

アーニー・パイル国際劇場が開館した1年後に、米軍政官が「那覇を沖縄の首都とする」と発表し、以降那覇市は戦後復興のみならず、沖縄の政治経済の中心地としても発展することになります。その後は合併編入を繰り返し自治体としても成長を続けながら、1972年の日本復帰の都市を迎えます。沖縄戦から復興、米軍統治下による成長、本土復帰までの約四半世紀という年月を経て、沖縄県はようやく日本の一部として戻ってくることが出来たのです。

沖縄県の県庁所在地として

復帰後は沖縄県の県庁所在地として、沖縄の政治経済の立て直しのための牽引役として那覇市は発展を遂げてきました。現在は復帰直後の時代の建造物の老朽化による問題や高い失業率、市制の見直し、日本全土と同じ少子高齢化などの問題を抱えつつも、しっかりと前を向きながらさらなる発展を遂げられるような計画と努力が続けられています。